‘スイス・米国時計紀行’ カテゴリーのアーカイブ

3月4日のTBS世界遺産

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6月 07 2012 年

3/4(日)18時から放映されるTBSの番組”THE 世界遺産”で、私も2009年に行ってきたスイス時計製造の町であるラ・ショー・ド・フォンとル・ロックルが特集されます。

その2009年の訪問の際、現地で私を案内してくれたS君が番組内で取り上げられるそうです。

彼とは10年来の知り合いなのですが、知り合った時、彼は誰もが知っている有名大学の学生でした。

当時から古時計の修復・再生に高度なテクニックを発揮していたのですが、そのまま 一流企業へ就職し、時計は趣味として楽しむものだと思っていたところ、なんと卒業後に彼は渡仏し、語学学校に通った後は現地の時計専門学校に入学しました。

やはりそこで抜群の成績を収め、複雑ムーブメント設計/製作の会社へ技術者として就職し、現在に至ります。

成績優秀で就職先から請われる形で就職が決まったにもかかわらず、就業ビザの取得には並々ならぬ苦労があった事を聞きました。

「スイスの時計学校留学で箔をつけて、あわよくばそのまま現地で就職」と考えて時計師を志す若い方も多いと聞いています。
日本の雑誌や時計専門学校も、そういった”格好のいい外国留学”的な事を煽る素地があるようです。

しかし、日本から外貨を落としてくれる”学校入学&留学”と、現地の雇用を圧迫しかねないうえ、技術やノウハウが過去驚異的なライバル国になりそうなところまで行った日本へ流れる危険性もある”就職”となると、全く対応が異なるものだという事も知っておいてほしいものです。
当然ながら、スイスの時計学校では流出してもよい技術・情報しか教えてくれません・・

日本でも学べる事、出来る事はたくさんあります。日本で収まりきらない自信が芽生えてからでも留学は遅くないのでは、と思います。

しかしこんな事、雑誌や他の媒体ではまず書いてません・・

TVや雑誌は勿論の事、京大の入試問題にすらあっという間に回答を教えてくれるインターネットでも、こういった情報はなかなか入手できません。
生身の人間同士で無いと得られない情報や知識もまだまだありますよ。

ごくごく一部の限定情報に限ってですが、このブログには大きな媒体に負けていけない、という自負があります!

歴史的スピードマスター

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6月 07 2012 年

画像はおなじみのスピードマスターですが、ただのスピードマスターではありません。
760,000kmを旅した経歴を持つスピードマスターで、1969年に月面初着陸を果たしたアポロ11号搭乗のマイケル・コリンズ飛行士が着用していたそのものです。

コリンズ飛行士は月着陸船には乗り込まず、司令船に残って月面を周回する任務でしたので、このスピードマスターは月面には降り立っていないのですが、歴史的な時計である事に異論は無いでしょう。

当時のままと思われるベルクロ式ストラップが”オリジナル”といった雰囲気を醸し出してます。
このストラップのレプリカがあったら欲しいものですね。

ちなみに、月面に初めて降り立ったアームストロング船長のスピードマスターもスミソニアン博物館所蔵だったと記憶してますが、こちらは非公開のようです。

一時期、雑誌などで月面初着陸のスピードマスターのムーブメントはcal.321かcal.861か?という議論がありましたが、こればっかりは文字通り蓋を開けてみないとわかりませんね。

ただ、時期的なものや、NASAの支給品であるスピードマスターは当時基本的に繰り返し使用されるものであったという事から、私はcal.321だったんではないかと思います。

時計ビギンで、最後の月面着陸となったアポロ17号で使用されたスピードマスターの裏蓋を開けた事がありましたが、その個体はcal.321でした。

画像のコリンズ飛行士のものも、プッシュボタンなどがcal.321時代の特徴を備えてるように思いますが、このあたりの詳細な知識について、私はいわゆるスピマスマニアと呼ばれる方たちほどの知識は持ち合わせておりませんので、詳しい方いらっしゃいましたら、コメントで解説をお寄せくださいませ!

余談ですが、NASAによる公式時計選考の際、手巻きデイトナが最終選考で脱落したという噂があります。
いったい何がスピードマスターとの運命を分けたのでしょうか??

近いうちに、構造/機能面を中心に、私なりの勝手な推論をこちらで述べてみたいと思ってます。

最初の飛行機時計

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6月 07 2012 年

 

お陰様で無事帰国いたしました。
渡米中、夜とかはヒマだったのでいただいたコメントに返信する余裕もありましたが、これから再び仕事に追われますので、コメントの返信が無くなってしまう事をご容赦ください。

さて、画像はライト兄弟の初飛行の際、操縦していた弟のオービル・ライトが携行していた懐中時計です。

ハンターケースのハンプデンですね~。

初飛行はたった12秒、36mだったといいます。
それから25年経たないうちにリンドバーグのニューヨーク→パリ無着陸飛行、さらに50年後にはマッハ2突破と、進化のスピードが凄過ぎます。
そう考えると、時計って100年前から基本部分には大きな変化が無いなぁ・・・

小学校のとき、ライト兄弟の伝記を読んだ読書感想文で賞を獲った事がありました。
ライト兄弟は二人ですが、飛行機開発中は勿論、開発後もさほど積極的に他の技術者と交流しないタイプの人(特に兄のウィルバー)だったとの事。
やっぱり独自行動の人の話が好きだった私・・

余談ですが、ライト兄弟は三男と四男なんだそう。
兄のウィルバーがいかにも「長男」という雰囲気なので、これは意外でした。

1958年製エクスプローラーⅠ

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6月 07 2012 年

 

 

皆様ご無沙汰しております。
HPでも告知しておりますが、部品買い付けのため、現在アメリカにおります。

主に仕事が目的とはいえ、わずかではありますが観光もしてきました。

そこで見たのがこれ、1958年製のエクスプローラーⅠです。
「はぁ??」と思われた方も多いかと思います。(というか、99%の人ですね)

でも、私が小学生の頃、最初に知ったエクスプローラー1はこちらのほうなんです。
読んでても何が何だか判らないと思いますので、「エクスプローラー1号」で検索してみてください。

スイマセン、次からはこの場所で見てきた時計を紹介したいと思いますので許してください。
実は後ろに写っている飛行機も、時計とは実に深いつながりがあるんですよ!

ウォルサム・リンドバーグ

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6月 07 2012 年

時計でリンドバーグといえばロンジンですが、実際にスピリット・オブ・セントルイス号の計器盤にはめ込まれて、1927年にニューヨーク・パリ間の無着陸飛行33.5時間の時を刻んだのは、ウォルサムの8日巻でした。(腕時計は別にしていたかもしれませんが) 

二枚目はセントルイス号の全体画像です。(後ろにX-1が!私はこの2機が同じ視界に入ってるのを見て泣きそうになりました)
子供の頃に本で読んだ通り、コクピットを機体中心にし、視界を完全に犠牲にしてもエンジンとコクピットの間に燃料タンクを増設して、+@の航続距離を得て精神的余裕を持つようにした設計なのがわかりますが、普通、離着陸時の事を考えたら視界を犠牲にする事は考えにくいですよね。

でも、基本的に飛行回数をこなす飛行機ではありませんから、それよりは万が一に備えての余分の燃料、と判断したのだそうです。
そういった常識と異なる発想の転換の能力が、やはり他にも同じ飛行に挑戦して失敗していた飛行士たちとは異なっていたのでしょうね。

そういえば私、子供のころから堀江謙一氏の「太平洋一人ぼっち」や、坂井三郎氏の「大空のサムライ」とか、単独で行動する人の物語を好んで読んでました。

同じ頃、教科書に掲載されていた「スイミー」について、”一匹だけ黒いなら、いじめる集団なんか無視して、海藻の陰にでも隠れてたらいいんじゃないか??”と発言して先生を非常に困らせた事があります。

昔からこんな調子だから、集団が馴染めずに自分で仕事を興す運びとなったものと思われます

涼しい風景をどうぞ

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8月 31 2011 年

皆様こんにちは。

9月になったというのに、太陽が強力過ぎますよねぇ・・
レビル将軍やデギン公王も、最期の瞬間はこんな気持ちだったのではないかと思う、今日この頃です。

そんな話はさておき、GMTマスターからは一時的に脱線しまして、久しぶりに”スイス時計紀行”の記事を書いて、気分だけでも涼しく過ごそうかと思います。

一枚目は世界遺産にもなった、スイス時計産業の中心地であるラ・ショー・ド・フォン市街の町並みですが、建物が比較的低階層で皆同じ方向を向いており、窓が見えているので屋根のすぐ下にも部屋がある事がわかります。

これらの建物は、最上階の屋根裏部屋が時計及びその部品作成のための工房として使われていた事が多く、作業に適した自然光を、最も効率的に取り入れられる東側に窓を向けるための配置です。

現在では、これらの建物で時計が製作される事は一部独立時計師のアトリエを除くと、ほとんど無いようなのですが、当時からの習慣の名残なのか、この地域の人々は夜明け前に起床し、太陽が出て自然光が入るようになる時間から始業時間となり、16時半~17時あたりで終業となるそうです。

近代的な工場で照明が完備されていたとしても、時計製作/修理を行うには自然光が最も効率が良いということなのでしょうね。

私の修理工房も、異様に大きな窓が東側に面した最上階という、これ以上無いくらいの好条件の物件なのですが、この夏の午前中は暑くて仕事になりません!!!

何事も、その土地に合ったものというのがあるのだと痛感しております。

2枚目はトレッキングの際に撮影したマッターホルンです。
あぁ~、涼しそう・・・

ベルン時計塔の秘密 その2

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8月 31 2011 年

NHKの番組でも紹介されていましたが、修理・調整を施している間でも休むことなく動き
続けていたというのが、この時計塔の特徴です。

その秘密は、内部の案内ツアーで機械部分を見たときにすぐ判明しました。
画像のように、一歯づつネジで固定されていて取り外しが可能な構造になっているのです。

歯に磨耗や変形が発生した場合でも、次に噛み合うまでに迅速に交換すれば、停止させ
ることなく調整が可能なんだそうです。
基本的に全ての歯車がこの構造を採用していたんですが、製造に手間がかかり、コストと
いう面ではかなり度外視された設計です・・

まぁ、この部分以外でも軸受けなどのメンテナンスは不可欠ですし、厳密にいえば停止
したことはあるんでしょうが、停止時間をかなり少なく出来ることは事実ですね。
ツアーの最中にこんな部分を凝視していたのは、案の定ワタクシだけでしたが・・

2枚目画像は振り子部分ですが、鉄球の直径は70cmくらいありました。
見学ツアーに他の日本人はいなかったので、あさま山荘が破壊される映像を思い出したのも
ワタクシだけだったことでしょう。

ベルン時計塔の秘密

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8月 31 2011 年

実はジュネーブでもチューリヒでもなく、スイスの首都であるベルンの中心部に、
1530年に設置された時計塔があります。

毎正時にてっぺんの鐘が鳴り、正午には二枚目の画像の右にある人形が動き出すと
いう、欧州の都市にある時計台としては比較的凝った造りとなっています。

時計台の下部分は、24時間、月齢、日月曜表示のトリカレムーンフェイズになって
います。

この時計台の内部を見学できるコースがあったので、当然参加したのですが、そこで
結構意外な構造を見ることが出来ました。

三枚目は時計台の鐘の真下部分から見たベルンの町並みですが、街を外敵から守る
監視塔の役目も担っていた事が良くわかる光景です。

あ、意外な構造の解説は次回で!

ロードマーベル36000瑞西へ!

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8月 31 2011 年

私はすかさず、ニコラ氏に”トゥールビヨンの調整で最も苦心するところはどこか?”と質問したところ、”ヒゲゼンマイが完全にバランスとれた状態でないと精度が悪化するだけでなく停止してしまうところだ”との回答がありました。

その他にも、回転する脱進器=キャリッジ部分のアガキ(遊び・ガタ)などはクロノメーター級の高精度時計よりコンマ1上の調整が必要だそうで、具体的には、テンプやアンクルのホゾ部分のアガキは○/100mmではなく、2~5/1000mm以内での調整になるんだそうです。

また、意外だったのは同じ大きさのテンプを使った時計に比べてゼンマイトルクが低いということです。
重いキャリッジを回転させるのに、半ば無理矢理トルクの強いゼンマイを使用するのだと思っていましたが、上記のように可能な限り抵抗を減らすと言う調整ですので、それもうなづけますね。

日本ではトゥールビヨンの修理はスイス送りになるので、こういった話はスイスでないと聞けません。

それにしても、ちょっとした衝撃でヒゲゼンマイは片寄るんですから、これだけ調整しても日本に到着する頃にはバランス狂っちゃうんだろうな・・・道理で精度はイマイチよくないというのも理解できます。

さて、話は前後しますが、この度スイスへ行くのに、どの時計をしてゆこうか迷いました。
スイス製の時計を着けてゆくのは、いかにも手前味噌・・・
学生時代にセントルイスでセントルイス・ブルースマーチを演奏した事があるのですが、それにも似た恥ずかしさを覚えるのではないかと思って避けることにしました。

ここは日本人としてのプライドを示すべく、知る限りスイスでは生産されなかった手巻・10振動という”ロードマーベル36000”を持ってゆくことにしました。

すると、ニコラ氏がこのロードマーベルをいたく気に入り、「日本ではいくら位で買えるんだい?」、「今お金を渡すから、日本で手に入れて送ってもらえないか?」と言うではありませんか!

私も、日本製の時計を気に入ってもらえたのが嬉しかったので、「この時計でよければ、日本のネットオークションで買える価格で譲るよ」と言っちゃいました。

もちろん、その場で話はまとまったのですが、彼はすかさず「ガンギ歯は何枚だ?」、「オイルは何を使っているんだ?」と質問攻め。
翌日、裏蓋を開けていくらでも観察できるでしょうに、いても立ってもいられなかったんでしょうね~。

本場の、しかも本職の方にこれだけ興味を持ってもらえる時計を製造していたんですから、SEIKOのレベルもそう低いものでは無かったんですよ。
この技術を一時期絶えさせてしまったのは、返す返すも残念です・・・

画像は譲る際、お別れにあたって撮影したロードマーベルとホテルのキーの画像。

後日ニコラ氏からメールが来たんですが、本場の地で快調に素早いビートを刻んでいるとのことでした!

自社開発ムーブの真実

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8月 31 2011 年

フランス国境にほど近い、スイス時計産業の本拠地ともいえるラ・ショー・ドフォンと
いう都市にある国際時計博物館で、お目当てのアンティーク時計市が開催されます。

その前日に、以前からの知り合いでフランスの時計学校を卒業し、現地のムーブメント
メーカーでスプリットセコンドの組立/調整を担当しているS君と会って食事をすること
になりました。

彼は今年の初めにNHK・BSの番組に出演したので、ご覧になった方もおられるのではない
でしょうか。
せっかくだというので、彼の友人で別のムーブメント製作会社でウォッチメーカーと
して活躍するニコラ氏を紹介してもらって、共に食事をすることになりました。

彼はトゥールビヨンの最終組立と調整を担当しており、彼が調整したムーブメントを搭載
した時計は1,100,000スイスフランで販売されたそうです。

110万スイスフランというと、30年ほど前に銀座の路上で大貫さんが拾った金額とほぼ
同じですね。

その時計のブランドを明かすのは避けますが、ちょっと前まで”世界初の腕時計を~”
とか自称していて、特定のクルマとのコラボを売りにしていたメーカーです。
懐中時計を改造したりして、それ以前から特注で腕時計は作成されていたのですから、
そんな起源は根拠が無いんですがね・・

それはさておき、こういった高額で売り出される複雑時計の大部分は、彼らが働いて
いるようなムーブメント開発会社で生産されています。

大部分が事務系を含んで全社員が50人未満という小規模な会社で、大メーカーから依頼
を受けてトゥールビヨンやスプリットセコンド、リピーターなど複雑時計の開発・生産
を担当しています。

やたらと”自社ムーブ”にこだわる日本人や当のメーカーとっては、あまりバラして
欲しくなかった話だとは思いますが、これが現実なんですよ。
日本人も、あんまり宣伝やブランド力に惑わされない事が必要だと思いますよ・・。

で、画像はその食事の場で食べた馬肉のステーキ。
意外にも大味でなく大変美味でしたが、醤油バターで食べたいと思ってしまった
ところが、やっぱり日本人です。

次回、ニコラ氏から聞いた”トゥールビヨンの意外な真実”と”スイスへ時計を輸出してきました”です。